2009/08/05

ハプスブルグ家と『ウィリアム・テル序曲』

ウィリアム・テル

実は私は、財閥研究ということで、次の四つのヨーロッパ、アメリカの財閥研究を行っている。

   13世紀 :ハプスブルグ家  (オーストリア・ウィーン)
   15世紀 :メディチ家     (イタリア・フィレンツェ)
   18世紀 :ロスチャイルド家 (ドイツ・フランクフルト)
   19世紀 :ロックフェラー家  (アメリカ)

この四つの財閥をよく調べることによって、欧米史が一つの糸で繋がってくる。

今回は、その中でヨーロッパ最大の権勢を誇ったハプスブルグ家に関わるエピソードを一つ紹介しよう。その話は『ウィリアム・テル』の話である。

スイスのアルトドルフにウィリアム・テルの記念碑が建てられている。何故ならこのウィリアム・テルは、スイス建国と関わりが深いからである。私は、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』が大変に好きで、中学生の頃からよく聞いている。スイスのアルトドルフを訪れると、その記念碑の所でしばらく車を停めて記念碑を眺めた。『ウィリアム・テル序曲』を聴くと、その情景を思い浮かべるのである。

まさに朝の光景など静かなスイスの自然の光景が、曲の中で実に巧みに取り込まれている。さて、今日はそのスイスを舞台にしたロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』の話ではなく、ウィリアム・テルその人の話である。

元々ハプスブルグ家は、当時のヨーロッパでスイスに領地を持つ小国に過ぎなかった。しかし、ローマ皇帝を決める8人の選帝侯は、むしろ強力な皇帝を選ぶよりも、自分たちの動かし易い人物を皇帝に選ぶ傾向があった。

そうした傾向を受け、1273年のローマ皇帝にハプスブルグ家の当主が選ばれたのであった。何故なら、あまり優れた武将との印象が無かったからである。ところが、「君子は豹変す」であり、ハプスブルグのスイス領にいた頃とは違って賢帝となり、次第にその力も領土も拡大していった。

しかし、後になってハプスブルグ家が強くなるにつれ、そして代が変わり強権的に近隣の国々に接するようになるにつれ、スイス建国の機運は高まり、ウィリアム・テルを中心として反ハプスブルグの動きが形成され、それが今日『ウィリアム・テル序曲』として伝えられている。

実は私は、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』が大好きでありながら、斗って独立を勝ち取ったウィリアム・テル達の相手がハプスブルグ家であったことを知らなかった。ハプスブルグの歴史を調べる中で、その事が判ったのであった。

この事を知った上で、もう一度『ウィリアム・テル序曲』を聴いてみると、その情景がより鮮明に湧いてきたのであった。息子の頭の上に乗せたリンゴを父親のウィリアム・テルが弓矢で射るという話は、まさにハプスブルグに向けられた矢であったのである。

全てのものは、全てとつながっているというのが、仏教の縁起説の教えであり、一つの念は、天・地・人各々千の念とつながっているという“一念三千”の教えがあるが、まさに多くのヨーロッパの歴史もまた、全てがつながっているのである。この当たり前の事に気付かないで過ごしてしまい、多くの知識を断片的に脳の中に詰め込んでいる事が多い。

その脳の中のガラクタの知識を整理する上で、ハプスブルグ、メディチ、ロスチャイルド、ロックフェラーの財閥研究は、多いに役立ったのであった。この機会に感謝である。
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