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2009/09/10

『ハプスブルグ家』の研究をして①

私は、ヨーロッパの歴史を様々に学び、歴史的イベントの地を訪れてきたが、歴史を一本の線として把握することが出来ないでいた。しかし、2008年の9月15日を境にして、即ちリーマン・ブラザーズの倒産を境にして、ヨーロッパの王朝と財閥研究を始めたことで、その軸というか、串というか、線として捉える術を持つことが出来た。

しかし、同時に私は改めて学ぶ程に、かなり曖昧な欧米の歴史の学習をしてきたように思え、反省することしきりであった。やはり、点としていろいろな事件を学んでいても、その因果的関係をしっかりと押さえていないことが多くなってしまう。

恥ずかしい限りであるが、例えばハプスブルグ王朝は、元々ウィーン(オーストリア)の領土を基盤として成長したと思っていた。しかし、元々はスイスの弱小国であり、1273年にハプスブルグ家の王ルドルフ一世が、七人の選帝侯によって神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれるまでは、当時のヨーロッパの中では小国でしかなかったのだ。当時のウィーンは“アジアの一歩”と呼ばれる城塞に過ぎず、大変な田舎であったのである。

と同時に、ハプスブルグ家の夏の宮殿シェーンブルン宮殿を見、マリア・テレージャの活躍を学ぶと、ハプスブルグ家の歴史への登場の頃の話までが、勝手に脚色されてしまっていたのである。まさに大財閥と思っていたが、必ずしも多くの時間そうではなかったのである。

また、神聖ローマ帝国(殆んどドイツ領に近い)と古代ローマ帝国、そして今のイタリアの首都ローマとの関係にしても、かなり曖昧のままに漠然としか認識していなかった。

しかし…… (つづく)
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2009/08/25

改めて思う 言葉と文字の大切さ③ ―― 言葉と文字

文字の無い言葉は、少数民族等に今日でも未だ見られる。しかし、文字の無い言葉は伝唱のみであり、太安万侶が稗田阿礼の言葉を文字化した『古事記』の如く、言葉が文字化されることによってはじめて多くの人にそれを伝える事が出来る。それ故に文字は、人間のコミュニケーション活動を広める上で、この上なく大切であることは論を俟たない。

更に、文字を印刷することが出来るようになることによって、人間のコミュニケーションは、一段と進み、多くの人々が共通の考えを共有することが出来、それが社会基盤を更に高めることになっていったのである。


     

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■テーマⅢ  当研究所研究員による タウンウォッチング新・珍・奇
     
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2009/08/05

ハプスブルグ家と『ウィリアム・テル序曲』

ウィリアム・テル

実は私は、財閥研究ということで、次の四つのヨーロッパ、アメリカの財閥研究を行っている。

   13世紀 :ハプスブルグ家  (オーストリア・ウィーン)
   15世紀 :メディチ家     (イタリア・フィレンツェ)
   18世紀 :ロスチャイルド家 (ドイツ・フランクフルト)
   19世紀 :ロックフェラー家  (アメリカ)

この四つの財閥をよく調べることによって、欧米史が一つの糸で繋がってくる。

今回は、その中でヨーロッパ最大の権勢を誇ったハプスブルグ家に関わるエピソードを一つ紹介しよう。その話は『ウィリアム・テル』の話である。

スイスのアルトドルフにウィリアム・テルの記念碑が建てられている。何故ならこのウィリアム・テルは、スイス建国と関わりが深いからである。私は、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』が大変に好きで、中学生の頃からよく聞いている。スイスのアルトドルフを訪れると、その記念碑の所でしばらく車を停めて記念碑を眺めた。『ウィリアム・テル序曲』を聴くと、その情景を思い浮かべるのである。

まさに朝の光景など静かなスイスの自然の光景が、曲の中で実に巧みに取り込まれている。さて、今日はそのスイスを舞台にしたロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』の話ではなく、ウィリアム・テルその人の話である。

元々ハプスブルグ家は、当時のヨーロッパでスイスに領地を持つ小国に過ぎなかった。しかし、ローマ皇帝を決める8人の選帝侯は、むしろ強力な皇帝を選ぶよりも、自分たちの動かし易い人物を皇帝に選ぶ傾向があった。

そうした傾向を受け、1273年のローマ皇帝にハプスブルグ家の当主が選ばれたのであった。何故なら、あまり優れた武将との印象が無かったからである。ところが、「君子は豹変す」であり、ハプスブルグのスイス領にいた頃とは違って賢帝となり、次第にその力も領土も拡大していった。

しかし、後になってハプスブルグ家が強くなるにつれ、そして代が変わり強権的に近隣の国々に接するようになるにつれ、スイス建国の機運は高まり、ウィリアム・テルを中心として反ハプスブルグの動きが形成され、それが今日『ウィリアム・テル序曲』として伝えられている。

実は私は、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』が大好きでありながら、斗って独立を勝ち取ったウィリアム・テル達の相手がハプスブルグ家であったことを知らなかった。ハプスブルグの歴史を調べる中で、その事が判ったのであった。

この事を知った上で、もう一度『ウィリアム・テル序曲』を聴いてみると、その情景がより鮮明に湧いてきたのであった。息子の頭の上に乗せたリンゴを父親のウィリアム・テルが弓矢で射るという話は、まさにハプスブルグに向けられた矢であったのである。

全てのものは、全てとつながっているというのが、仏教の縁起説の教えであり、一つの念は、天・地・人各々千の念とつながっているという“一念三千”の教えがあるが、まさに多くのヨーロッパの歴史もまた、全てがつながっているのである。この当たり前の事に気付かないで過ごしてしまい、多くの知識を断片的に脳の中に詰め込んでいる事が多い。

その脳の中のガラクタの知識を整理する上で、ハプスブルグ、メディチ、ロスチャイルド、ロックフェラーの財閥研究は、多いに役立ったのであった。この機会に感謝である。
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